神道は宗教なのか。これは非常に難しい質問である。そもそも、「宗教」と聞いて思い浮かべるものが人それぞれである。そして、その思い浮かべるものの幅が非常に広い。例えば「りんご」と聞いて思い浮かべるものは、赤く丸っこくて手のひらに多少余るやや硬い物体で、食べることが出来るものを思い浮かべるのが通常であろう。それに比べて「宗教」と聞いたときに、人によってはユダヤ教、キリスト教、イスラム教などを思い浮かべるであろうし、また別の人は天理教、大本、創価学会などの新興宗教を思い浮かべる人もいるだろう。はたまた、宗教と聞いて何か如何わしいと即断する人もいるだろう。
ここでは仮に、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を比較対象として神道を考えてみたい。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を啓示宗教と呼ぶ。これは、これらの宗教が神からの啓示によって成り立っているということからくる言い方である。啓示とは何か。簡単に言えば、生活の指針を倫理観の側面から懇切丁寧に指示されるということである。なぜそうしなければいけないかという部分で「神」を持ち出して、それ以上の疑問を持たせないというのが宗教たるゆえんである。人間社会で、たとえ上下関係があるにしても、もしも誰かから「こう生活しろ」と言われたところで、「なぜおまえの指示に従わねばならんのだ」となりうるところを、「神が言っているのだ」とある意味での嘘(=大文字の嘘=God)をつくことで無理やり納得させるわけだ。イスラム教に至っては事細かに生活様式を指示して貰える。それは当たり前と言えば当たり前で、イスラム教がこの三つの中では最後に成立した宗教であり、前の二つの足りない部分を補って成立しているからである。
これらの啓示宗教と比較すると、神道はなんとも心もとない。なにせ、生活の指針となるようなことは一切指示して貰えない。そもそも、山をみてそこに威厳さを感じ、自然と手を合わせる気持ちの発展形が神道だとすると、「威厳さを感じる」というのが神道の根本だということになる。山は指示を出さない。山に踏み分け行った時に山を乱さないようにするといった類のことはあるかも知れないが、これとて山を乱すと威厳さが減るという自分勝手な思い込みに過ぎない。ましてや、山は「姦通はだめだ」といったような生活の指針に関しては一切口を出さない。というよりも、山は口を利かない。啓示宗教の神が「はじめに言葉ありき」を端緒とすることと比べると正反対である。
さて、神道が日本人の宗教観の表れだとすると、日本人の生活の指針はどこから来るのだろうか。私はそれは「お天道様」だと思っている。これは、天照大神が最高神であることが示唆的である。そしてお天道様とは世間のこと、つまり「世間が見てる」という代わりに、それではあまりに泥臭い為に「お天道様が見ている」と言い換えているに過ぎない。これは、若い人でもそうで、お天道様が見ているという言い方はしなくなったが、世間を気にすること甚だしい。KYを極端に嫌うことに関していえばむしろ若い世代の方がより深刻になっている気がする。
山本七平が指摘した日本人の特性は未だ健在というわけだ。